大人が読む児童書「はてしない物語」 4 ファンタジーの危険性について考える
大人が読む児童書。
「再読★児童書編」です。
この記事はネタバレもしていくことになりますので、未読の方はご注意ください。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
今日の一冊
バスチアンはあかがね色の本を読んでいた――ファンタージエン国は正体不明の〈虚無〉におかされ滅亡寸前。その国を救うには、人間界から子どもを連れてくるほかない。その子はあかがね色の本を読んでいる10歳の少年――ぼくのことだ!
妹子が図書館で読むと言って出かけてしまったので、ひとりはてしない物語なしで考えているのですが、(まるでカールコンラートコレアンダーさんの気分です)
序盤のバスチアンがとてもていねいに描かれているのと、バスチアンが読み始めた本のファンタジー世界がすごく個性的なので、もうすっかり取り込まれて行ってしまいます。
「はてしない物語」
エンデワールドとしか言いようのないような個性です。
どこか中世の時代をモチーフにしているわけでもなく、エンデの知る限りのすべての世界、すべての言い伝えや物語をつめこんだような世界です。
虚無に蝕まれたファンタージエン…。病に冒された幼ごころの君…。
幼ごころの君を助けるために、一人の「選ばれし勇士」が選出されるのですが、十~十一の子ども、アトレーユでした。
このアトレーユの冒険に、バスチアンは少しずつ、少しずつシンクロしながら、ファンタージエンに入り込んでいきます。
バスチアンの叫び声が、ファンタージエンの谷間にこだまするし、アトレーユは鏡に映ったどう考えてもバスチアンとしか考えられない人の姿の中に入っていく。
物語に夢中になって頭からその世界の中にとけて融合していくような感覚を、見事に表しているなと思います。
◇
この作品は、太っていて、内気(今風に言えば陰キャ)で、オタクで、シングル家庭の子供という、スクールカースト(いやな言葉です!)ではおそらく底辺に位置するとされるのであろう子どものお話です。
けど、スクールカーストとはそもそも何だろう?
読書とは、「スクールカーストなんて意味が無い」という価値観を身に付けることなのではないのだろうか?
と思うのですけど…。
だってたくさんの創作物が、そういうことをうたっています。
けれど集団での評価は、他人からの視線や空気によって作られてしまいますから孤立無援で戦うのはつらいことです…。
このような状態の中で、バスチアンはファンタージエンの扉を開き、その中に入り込んでいくことになるわけです。
ひとりのアトレーユという、勇敢で(多分イケメン)理想的な少年の冒険を追ううちに、物語そのものが、内側から現実にいる彼に呼びかけている。
ファンタージエンが、荒廃して虚無にむしばまれ、飲み込まれようとしているのは、彼自身の心の姿でもあったことを知ることになります。
◇
ここから先を書いてみようとしたのですけど、原作のあまりの熱量にやられて、燃え尽きてしまいました。
まだ、この本を語れるだけの力がいまの自分にはない…。
それほど、圧倒される内容でした。
章の一つ一つが、夢中になれるのに重たいです。
◇
大人になってみてなので、このファンタージエンを食い尽くす「虚無」について自分なりにもう一度考えてみました。
人狼グモルクがアトレーユに語ったように、「ファンタジーはむなしい、逃避にすぎない、いつわりごとだ」、という考えは、今もこの世の中に蔓延しているように見えます。
先日、閑話で書いた、「オタクになっちゃうから本は読ませない」などという考えもそこにあるように思います。
妹子、最近は私のLINEを使って友達と連絡を取り合っています。(唐突ですが)
今は鬼滅が大人気なので、その話題がもっぱらです。(ちなみに私も大好きです)
この「LINEでその話題を送ってくる」というのは、ファンアートのことです。
つまりピクシブや、Youtubeの、本物ではない漫画や、絵や、加工作品が山のように送られてきています。
否定するつもりはまったくありません!
私も大好きです。広く深く、よくチェックしています。
しかし、もしかすると、親世代にとっては、これが「本を読むとオタクになる」の正体なのかもしれない。
妹子のLINE=私のLINEに押し寄せた、共有リンクの嵐を見ながら、そんな風に思ってしまいました。
◇
子供なので、まだ著作権などへの理解も少なく、親がフィルタリングについてうとければ、いっさいチェックをしていない。
Youtubeもピクシブ検索も野放し。二次創作を見つけると、LINEで共有…。
友達との会話、生活がそればっかりになってしまいます。
こんなときに、私は妹子に、「はてしない物語」を読んで欲しいと思いました。
創作を志すすべての人に、何かに夢中になって「そればかり」になっている子どもたちに、その親たちに、読んでもらいたいと思いました。
物語、ファンタジーは自分自身の心の旅、長い内省を経て、どこかに到達しなければなりません。
よく考えられた児童書は、成長過程においては、時として現実が厳しいときに手を広げて、優しく迎え入れてくれると同時に、未熟である子どもたちを、完全に世界にのみこまずにきちんと吐き出します。
現実の世界に向き合う力を与え、背中を押して外へ向かう一歩の力となります。
逃避の場所として、そこだけに閉じこもってしまわないように。ファンタジーが、逃げ込む場所「だけ」になってしまっていないか、自分に対して厳しい、律する目を忘れないように。
エンデの物語はファンタジーだけではなく、「夢中になってしまう」すべてのことに対する警告も秘めているのだと思いました。
◇
しかし実際に読んでみて、このお話はそれ以上のお話だという気がしました。
さらにひとつ、決して間違えてはならないと思うのは、エンデは「夢中になって没入してしまうこと」を否定しているのではないということです。
バスチアンは、没入して、ほとんど一体化と言えるほどまで、ファンタージエンの世界に沈んでしまった。
そこに潜んでいる危険があります。
ただ、その危険は、没入することでしか知ることはできない種類のものだったはず。
バスチアンが抜け出た先の道は、危険に肉薄するほど沈んで行き、そこから(十~十一歳にしてここまで!?)という長く苦しい旅を経てしか、到達できないのです。
禁じてしまっては、知ることも出来ないです。
すべての人が、自分自身のはてしない物語を抱えている。
バスチアンがもたらした命の水について、まだ私もじっくり考えてみたいと思います。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇
町はずれの円形劇場あとにまよいこんだ不思議な少女モモ。町の人たちはモモに話を聞いてもらうと、幸福な気もちになるのでした。そこへ、「時間どろぼう」の男たちの魔の手が忍び寄ります…。「時間」とは何かを問う、エンデの名作。小学5・6年以上。(「BOOK」データベースより)
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